私は疲れていない
疲れたと言ってはいけない風潮があると思っている。
しかし堂々と疲れた宣言をしていい特権階級の人間がいると私は思う。
許されるのは、ちゃんと正規雇用の仕事をしていて、安定して長く勤めており、そこそこの成果を出している人間。育児や専業主婦(夫)として過程を切り盛りしている人たち、ないしは学問や芸術の世界で日々最新を追い求めている人たち。
個人の思想やモットーで「疲れた」と口にしない人もいると思うが、こんなところ。
ありゃ、こりゃ大多数の人が当てはまっちゃうか。
しかしこの条件でいうと、私は疲れたと言ってはいけないことになる。
非正規雇用で、仕事も安定しない、職探しをするもどこにも引っかからない。
「つ……」と口から出そうになるも、(いやいやあんた疲れてる場合じゃないでしょ、明日のバイトの準備、履歴書も明後日には必要だからね!!)と口を噤ませ、自分を急かしている。
そんな生活が1か月以上続いている。バイトがない日は面接行脚。
年末からお腹の調子が悪いが、一向に治らない。免疫が弱っているのか、その他の不調も出てきた。
客観的にみると、ちょっと休んだほうがいいのは火を見るよりも明らかなのだが、そう悠長に構えていられないのである。
お金がないと人は死ぬ。
学歴と釣り合わない実態を見せつける履歴書。
無能を表す紙でしかない職務経歴書。
出したくないなあと思いつつも提出しなければいけない書類。
リュックサックにこれらを詰めて、都内を徘徊する。もう仕事を選べる身分ではないけれど、今度こそ長続きさせなければ、もう死ぬまでフリーターでいるしかない。
それを避けるために、自分が積極的に取り組める職に応募しようとするも、なかなか募集がない。
自分で選んだ道ならよいが、私は流れ流れてここまできてしまったタイプなので、現状仕事を見つけなければならないことはわかっていても、立ち位置ははっきりと理解していない。
「パトラッシュ、疲れたろう。僕も疲れたんだ。なんだか、とても眠いんだ」
私にゃパトラッシュはいないが、疲れた、という言葉を発していいのはそれこそ今際の際なような気がしてならない。
ていうか彼らはルーベンスの絵を見る、という目標を達成して、やっと「疲れた」と口にしたのである。
私みたいな半端者ではない。
本当に死んじゃうまで精力的にやったけどダメでした。
ここでやっと、疲れたという言葉と、実際に自分がとった行動のバランスが取れるような気がするのだ。
そういえば肉体はまだまだ動いているが、精神はどうなのだろう。
肉体と精神をネロとパトラッシュに例えるにはいささか無理があるが、肉体とはまた違った摩耗のしかたをするはずだ。
ああ、ブログを書いている間に履歴書を一部書けたのではないか。
出しっぱなしの掃除機を片付け、ゴミをまとめ、落っこちてきた突っ張り棒式の棚も設置し直せたのではないか。
時間を無駄にした。
私は疲れていない。
私は疲れていない。