逆立ちしても「上」は「上」続き
便利の話の続きを、ずーっとしてなかったなあとおもいました。夜です。
あの話(前回記事)はどう着地したかったのかというと、を書きます。
「なんでも便利になって、このままだと、一部の人たちだけ工夫を凝らして、その工夫を享受する我々一般消費者はどんどん阿呆になっていくんじゃないか。」
と、ちょっと前までは考えていたんだけど。
最近は、便利になってしまったものを逆行させるのって結構難しいし、ナンセンス。あえて「復刻版」として出回ることがこの先あるかもしれないけれど、それはあくまでも「旧式の文化」、という、要するにこんな不便な時代もありましたー、ってのを有難がるに過ぎない。
もちろん変わらない良さを保ち続けるものもあるだろうけどね。
なんて思うようになりまして。でもこれ以上阿呆になりたくないよう、と思う私はどうしようかな。
結果。「なんでこんな形・機能になったか考えながら、感動しながらつかえばいいんじゃない?」という考えに至ったのでした。
どこで切ってもちょうどいい加減で切れるはさみは、力の弱い人が、自立した生活を送るのに欠かせないと思う。いつでもいい書き味を提供すべく、芯をクルクル回しているペンだって、「なんでわざわざこんな機能を。→なるほど!」の機会になるし、何より勉強する人の集中力をあげているかもしれない。ソースはないけど。
ただ、まだ納得いくまで考えがまとまっていないのは、裏うつりしないペン、とか。悪者にしたいわけじゃあないよ!あれ発色もいいしさらさら描けるし大好きだよ!
でも、うっかり下に新聞紙を敷くのを忘れて机の裏に移っちゃったーーー!!!!なんて失敗をすることで、学ぶこととか、慎重になれること、気を配れるようになることってたくさんあると思うのです。昨今意見が割れている、いわゆる「失敗から学ぶ」というやつですが。こういう学びは大体みんな子供の頃に多かれ少なかれ経験していると思います。よ、ね?
子供と一緒にいる期間がそれなりにあったからそんなこと思うのかもしれないな。トラウマにならないレベルの失敗って、時には知識のスパイスになると思うのですよ。
でも失敗っていくら大人が口で言ったって、言葉として理解しても焼き付かないというか、無機質なデータになりがちで、その人の中で生きている記憶や経験にならないことが多い気がする。
私だって「牛乳をこぼして、床を拭いた後の雑巾はよく洗わなきゃ臭くなる。」ってのは聞いて知ってはいたさ。でも実際にこぼして、算数の計算ドリルにまでかかって、洗っても洗っても臭いは取れなくて、(このことかーーー!)となったのは実際にこぼしてからだった。
計算ドリルずっと臭かった。意味はちょっとずれるけど、覆水盆に返らず。牛乳はビンに返らず。臭いは牛乳に返らず。
ちなみに高校の時も数Ⅰの教科書にお弁当の汁漏れを吸わせていたな。(弁当箱は手荒に扱わず、まっすぐしまいなさい、は本当だったーーー!)
とにかく私は死ぬまで、ババアになっても(なんでだろう)を尊いと思える人でありたいし、(畜生、やっちまったぜ)と思うことがあれば、次はどうすべきか、と作戦を練れる人でありたい。
そして何よりも、今私の暮らしを豊かにしているものの裏側にある、努力や工夫に思いを馳せて、自分なりの「便利の理由」を持てると、ちょっとは阿呆になるスピードを緩められるのではないかな、と思うのでした。
なんか便利グッズにケンカ売ってるみたいだね。そんなことないよ。敢えて言うなら、これは嫉妬。きっとまだ気づかないことが多分この六畳間にあふれてる。ポンプ式容器のねじねじ。広告を抜かないと使いにくい街で配ってるティッシュ。
森羅万象、あらゆる意図と工夫のあれこれよ、これからもよろしくね。