バレンタイン狂想曲その1
タイトル、決して流行りに乗ったわけではないです。
一旦頭を整理するための記事を書いたらパッションが過ぎる内容になってしまい、より滾りが増してしまって、頭の整理どころか愛の大爆発が起きてしまったので昨日の記事は、また書き直して、然るべきタイミングで公開するか、そのまま出します。
さて。
あと1ヶ月でバレンタインですね。
季節感を大事にするならせめて2月に入ってから書くべきだと自分でも思うのですが、今書いておきたい。
いままでの人生で経験してきたバレンタインデーを振り返っておきたい。
そして2月にはコンディションを万全の状態に仕上げて用意を整えたい。
非モテ人生を歩んでいるからといって、自動的に2/14がすっ飛ばされるわけもなく、毎年皆と同じく2/14を迎え、バレンタインデーだと認識して生きてきた20ウン年。
「お菓子業界の~~」 という文句はよく聞くものの、ここまで浸透してしまったらそんな屁理屈は一蹴されてしまうのである。
私の通っていた幼稚園はかなり小さい園だったからか、いろいろな行事の際の決まりがかなりゆるく、バレンタインデーに食べ物を贈ることに関しても特に注意事項などはなかった。
それでもまだまだ幼稚園児なので「みんなともだち」スピリッツを捨てないまま、女子たちは、ほぼ全員の男の子にお菓子をあげていた。「ほぼ」全員の男の子に。
そう、1人だけまったくと言っていいほどバレンタインデーに無縁の男の子がいた。4歳にして既にほとんどの女児から嫌われていたTくん。
いつも洟を垂らしており、乱暴で大食い。休みの日になると近所の子の家におやつをたかりにくる、園服の背中に超リアルなスーパーサイヤ人を背負った男児である。
私も一応園の雰囲気に合わせバレンタインの用意をするも、
「Tくんのはいいや」
と言い、親から必死の説得を受け、渋々Tくんの分も用意した思い出がある。
バレンタインデー当日、一丁前に色めき立つ園児たち。
Tくんにもチョコを渡した。
その日も彼は背中にスーパーサイヤ人を背負っていた。
今だから気づけることだが、実はTくんのお母さんとうちの母は結構仲が良かった。
きっかけはうちの新聞の集金にくる担当がたまたまT母だった、ということなのだが、T母は肝っ玉母ちゃんで気さく、それでいてとても気が利く人だった。
いろいろ細かいが故に人付き合いを面倒臭がる母も、T母とは一緒にウォーキングに行ったり、唐揚げのレシピを教わったりと仲良くしてもらっていたようだ。
私もT母のことは好きで、集金にくるたびに出迎えて、お手紙まで書いたことがあった。しばらくしたらお返事がきた。
子供のお遊びに対し、花柄の便箋にとても綺麗な字でお返事を書いてくれて、当時とても喜んだ思い出がある。
今でもそのお手紙を持っている。
蛇笏の如く嫌われていたTくんだが、あの時チョコレートをあげてよかったと思っている。
お返しを考えるのは正直言って手間だろう。しかし、なにも持って帰らない息子を見るのもつらいに違いない。
私はいまでもあのペコちゃんの絵がついた箱のチョコレートはTくん、そしてT母に送ったものだと思っている。
ちなみに、バレンタインデーには結局同じ組の男の子にチョコレートをあげ、ホワイトデーにはそれぞれのお母さん方の手作りお菓子やら可愛いお菓子のお返しの山にホックホク。
妹に少し分けて、あとはすべて美味しくいただき、あっという間にデブりましたとさ。
お話は続く。