変わり玉記録帳

日記・文章を載せる場所。個人文章道場も兼ねる。脳みそ断片保管庫宇宙本部。

決死の書き初め

あけましておめでとうございません。私個人的には。

 


でもみなさんへの挨拶として、

あけましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

新年早々疲れる記事です。

私を取り戻したい!  と騒ぐ内容です。

今が充実している人には当たり前にできていることができていない私の、ぐじゃぐじゃをそのまま書き出しただけです。

 


 


いろいろ書いてみたものの、しっくりこず公開したくない記事が山ほどあり、なんでだろうと考えた。

最近書いたものにはまったく旨みも中身もない。とにかく魅力がない。面白くない。

 


もしかして、と思う理由のひとつは、私には「やりたいこと」がひとつもないから、ということだ。

 


働きたいとしきりに言っているけれど、それは生活の維持のため。実家に戻らないようにするため。

 


労働それ自体は生きるために必要で、決してつまらなくはないことだけれど、一番にやりたいことではない。

人として最低限こなさなければならない義務で、心を潤す行為ではない。

 


趣味もない、特技もない、研鑽していきたいこともない。乳活への熱意もほぼなくなった。

 


この短い正月休み、やたら寂しさを感じたのは、周りに人間がいないからではなくて、時間がたくさんあるのに、家事以外のことがなにもできなかったからだろう。

 


睡眠に逃げ込む。お腹の調子が悪いせいもあってか、布団に入っていても震えるほどお腹が空かないと食事も摂る気にならない。

 


ひとりでも淡々と暮らしていくには、掃除洗濯料理等の家事をメインとした生活に没頭することが必要なのかもしれない。

 


生活を無駄なく回し、天気をチェックして布団に入る。それだけに注力する。

しっかりと税金を納め、保険に加入し、健康を維持する(まだ保険に入っていません)。

 


私はなにかに没頭している人、命を捧げている人にとても魅力を感じる。

でも、昔から薄々気づいてはいたが、私にはそういうものがない。

 


高校卒業数日前、わざわざ受かった大学を蹴ってまで浪人を選んだ私に、

「将来なにになりたいの?」

と聞いてきた人がいた。言葉に詰まった。

「○○のすごい人」(○○の中は私が進んだ学科関連の言葉です)

そう取ってつけたように答えたけれど、違和感は消えなかった。

 


そういう人間的薄さは周りにも伝わっていくもので、私の周りからはどんどん人が消えていった。対面したときにエネルギーを感じない人間のどこに魅力があるのか。

 

感受性や感情でさえ、出来合いのものを借りてきている気がする。

 


そんな自分を私は「半分死んでるな」と思っている。

 


なんの情熱もない、半死人の涙にはどんな感情がこもるのか。

 


お金がなくて怖い?

 


打ち込むものがなにもないのが寂しい?

 


自分をつまらなくしている理由はわかるのになにもできないことが悔しい?

 


ていうか悔しいっていう気持ちを、まだ持ってるの?

 


この年齢は、もしかすると自分を諦めるのにはちょうどいいのかも、とすら思っている。

 


お金もないし。

 


「なにをするにも遅いということはない」

いや、そのすることが見つからないんだってば。

 


見つける気力がないんだってば。

 


どんなに疲れて帰ってきても、とりあえず少しでもゲームをしてから寝る人をとても羨ましく思う。

 


大事ななにかを優先順位第一位に据えた結果、経済的には不安定な生活を送ることになっている人が輝いて見える。

 


私みたいな人は表に出てこないだけで結構多いのではと思っている。仲間意識を持つわけではない。気がついたらなにもなくなっていた人たち。

 

 

 

おもしろいことに、中身が空になっていくのに比例して物を溜め込むようになった。浪費が増えた。

 


買ったのに使っていないものは、一瞬心を満たしてくれるけれど、時間が経てば経つほど私を責めるものに変わる。

 


なんで使わないのに買ったんだ

 

使い切れていないものの合計金額はいくらになると思っているんだ

 

お金に執着している人間のやることか?

 

下手するとひと月分は家賃払えるんじゃないか?

 


矛盾だらけの生活を送るのは苦しい、倹しく生きたい。

 


矛盾を生む寂しさを克服したい。

 


半死人として生きるにはリミットがあると思う。

 


年末年始、最寄り駅を走る電車が何度も人身事故で止まった。

 


酔っ払って大事には至らず、であることを願うが、年明けの今年の抱負発表合戦。全てが新しくなり明るく前向きな空気が溢れる世の中。

 


私はそれについていけなかった。昨年29日からTVはなにも映していない。

 


世の中についていけなくなった誰かが、離脱を選んだ結果電車が止まっていたら。

 


なかなか他人事ではない。

この心の重さが10倍くらいになってしまったら、私も電車を止めてしまうかもしれない。

目の前の団地の傍をべたべたに汚してしまうかもしれない。

 


まとまらないけど、とりあえず通販で買った未開封のものを返品しようかな。

 


蓄えた結果私を責めるものを、正しく使える人のところへ返して、返送料はかかるとしても私のもとにはお金が返ってくる。いいことづくめ。

 


でも、離したくない!  と思ってしまう理由はなんなんだろうね。気持ちが悪いね。

 


面倒だけど返品期限は近い。ぼーっとしてたらあっというまにきてしまう。

しっかり決断しないと。

 


こういうことを思うのは、消費感覚から直していけば、少しはマシな人間になるかもしれない、と考えたからだ。

 


打ち込むことが見つからなくても、いまよりもマシな人間になることは私にとって大きな一歩であり、プラットホーム黄色い線の内側まで戻ってくる大きな一歩なのである。

 


とても暗い。縁起が悪い。

 


情熱のない生活がこんなに苦しいとは思わなかった。

 


曲がりなりにも大学で学ぶこと、アルバイトに精を出すことに心血を注いでいたので、それらがなくなってしまったとき、はじめて自分自身にはなにもないことに気がついた。

 


なにか好きなこと、時間があればやりたいと思えることを見つけたい、と思うのは実は贅沢なのかもしれない。

 


でもこれ以上自分が薄まってしまうのは嫌だ。

 


助けてくれと言ったところで、これは手前の問題であるゆえ、なにも解決しない。

 


趣味がなくてつらい、時間を作ってまでやりたいと思えるほど好きなものがない、本当に馬鹿げた悩みに感じると思う。

 


唯一の頼みの綱だった「大学時代の専攻について書く」もなんだか力が湧かなくなってしまった。

 


またやりたいと思う日がくるのだろうか。

 


無理にでもやってみたらなにか変わるだろうか。

 


 


「私にはできないから」と言い続けていたら、本当になにもできなくなってしまった結果だ。

 


読むことも書くことも学ぶことも体を動かすことも、全部全部手離したのは自分だ。

 


それらが自然と自分のもとに帰ってくると思うな。本当に大切にしたいものなら、急がなくていいから迎えに行け。

 


とんでもないブランクがあるのだから、きっとはじめは思うとおりにいかない。

 


読書だって、本に対峙することにドキドキしてしまって30分と持たなかったけれど、一冊の本にそこまでの気持ちで向き合えることを評価して、また読めばいい。

 

 

あなたが実は完璧主義者で、自分へのハードル設定が高めであり、それを超えられなかった時に必要以上に落ち込んで、無理矢理な関連付けで自分のすべてを否定することは知っている。

 


でも、いま足が動かなくとも、せめて自分自身に呪いをかけるのをやめろ。謙遜と自虐は似ているようで違うことぐらいわかっているはず。

 


頭の使い方を考えて。

「私は馬鹿だから」は一部当てはまるけど、それは持っているものの活かし方が下手な点においてである。

できるはずの思考を止める言い訳にするな。このまま腐らせるな。私の頭の回転速度と深く潜り込む力はこんなものではないはず。

 

そして鈍りきった感受性を、真に私のものとして新たに働かせること。

なぜか認められなかった感情のうねりを私の気持ちとして受け入れること。

心に湧いた愛情を見過ごさないこと。自分の愛情、そして愛情というものそのものの強さを再確認すること。

 

すべてがやり直し。

 


もう何年もずっとずっと考えていたけど言えなかったことたち。破裂した。

 


吐き出して生存に向けて動く。