悪口の思い出と身につかない処世術
大学1年のとき、すごく真面目に勉強に取り組んでいる人のことを悪く言う人らがいた。
槍玉にあげられてしまったしまった人は、たしかに成績も優秀そうだったし、努力しているのも傍目から見ていてわかるほどだったから目立ってしまったのだと思う。
私は、その人とは席が近くなれば話す、「今日はこれからどんなことやるのかね~~」とかなんてことない事しか話さない間柄だった。
だから特段親しいわけではなかったのだけれど、なぜかその悪口なんだか妬みなんだかを聞いて、ものすごく気分が悪くなった。
内心ブチギレていた。
でも、もうみんな大人だし、落ち着いて自分のやる事見つかったら黙るでしょう、と思って意見せず聞き流していた。
しかしなかなか収束せず(私のスピード感的に)。かといってそれを私が友達にぐちぐち言うのも、悪口の連鎖みたいで嫌だなと思っていたので黙っていたが、
ある朝突然爆発した。
大学にに向かう前に、
「私の事じゃないけどさ、お節介なんだけどさ。なぜ大学という学問をする場所で思いっきりそれをやってるだけなのに悪口を言われなきゃならないんだ。悪口を言っている人とそれを面白がってる人はなんのためにここにきたのか。ネームバリュー欲しさ? エスカレーター? なんとなく? なんでもいいけどふざけるな、見ているだけで気分が悪い。現役で入学できる頭脳をなんて下らないことに使ってるんだ。勉強しろ。がっかりした、その人たちの名前はわからないし喋ったことはないけど、それでも耳に届くくらいおおっぴらに悪口を言う。なんだこの人間関係、地獄かよ、いってきます」
と半分独り言、半分母にぶつけるような感じでウワアアアア! とまくし立てて、玄関に向かう途中、母親が
「あんたは、物書きになんなさい。それか、あー、なんかそういう感じの仕事をしなさい」
とだけ言われた。
「なんでさ」
「きっとやり過ごせないことが多いだろうから」
「あー、まあ、そうねえ。嬉しくないと言ったら嘘になるけど……でも英語の先生になるために入って、いまやっとスタート地点だから。授業全部楽しいし」
そんなようなやりとりをして大学に向かった。
その日は例の優秀な人と何人かで珍しくバカな話をした覚えがある。
私は結局学校の先生にはならなかった。
何の因果か少しずつ文章の仕事に近づいてきてしまっているのだ、いや、喜ばしい限りなんだけれど。
私が感情を爆発させたあの日、大学のひとつの学科の中のひとつのクラスという、クッソ小さい社会でも上手くやれそうにないな、と思った母は私にひとつの道を示していたのかもしれない。
でもやり過ごせないことが多いからといって、即物書き、というのはなんか違うとは思ってる。段階早くないですか? というやつである。
とにかく。
実際社会に出てみてたら、たしかに首を突っ込めない気になることが多すぎる。
忘れることは少し上手くなったけれど、立ち会ってしまったときの(うわーうわーどうしよー)感はいまだに慣れない。
しかし、この大学時代の一件はいまでも思い出すくらいなのだから、相当腹が立っていたに違いない。真っ当な努力を笑う人は嫌い。たとえその人も影で努力していたとしても。
だって、自分が努力しているからといって、同じく努力している人を笑ってもいいなんてまったくもって筋が通ってないことくらい、横浜中華街のお土産で韓国海苔を買ってしまるレベルのバカな私でもわかる。
物書きにはならないと思うけれど、こう日常にちょこちょこある、自分が関与していないけれど見過ごせない物事は自分のためにも他人のためにも慎重に扱わないといけない。
善意の見て見ぬ振りがあるのかどうかわからないけど私はそれを覚えるのが遅かった。これからももうみんなが身につけているスキル、いわゆる処世術を遅れて獲得していくのかもしれない。
出る杭は打たれる、という言葉がある。出る杭になったことはないので打たれる気持ちは想像しかできないが、私が傍目で見て(ああ、打たれてるな)と思う人たちの打たれ方は様々で、打たれるのにも上手い下手があるんだなというも発見であった。
あと、羨ましいといったら怒られそうだが、「打たれ慣れ」している人もいることを知った。
話に収拾がつかなくなりはじめている。悪口を言っていた人にも何かしら理由があって(だからと言って許されはしないと思うけど)、言われる方にはその人たちにとって羨ましく思えるなにかがあったのではないか。
で、きっとそれは大人になっても本質は変わらない。外側の出来事やら絡む個人の事情がどんどん小難しくなっていっているだけなのでは、と推測している。
出る杭にもなれず、それを妬むレベルにまでも到達できそうにない、うだつの上がらない私はその両者の間で(うわっ、ちょっとちょっと……悪口は……嫌だな……)と一生おたおたしてそうだな、と最近昔のことを思い出して考えたのだった。