変わり玉記録帳

日記・文章を載せる場所。個人文章道場も兼ねる。脳みそ断片保管庫宇宙本部。

「私」をうつすもの(課題作文)

 これもある企業の課題作文で、きっちりとしたテーマが与えられたものでした。

 本当はもう少し違うことが書きたかったんだけども、世の中には締切というものが存在するし、ギリギリにならないと腰を上げない・筆を執らない人というものも存在するから困りものなのでした。

 

 「言葉」にまつわる話だからとても丁寧に、大切に扱いたかったのだけど、そうはいかないね。私は今のところ、一生言葉に振り回されてしがみついて生きていくんだと思っています。私の名前についても、いつか書きたい。なんか万葉集だのなんだの和歌から来てるらしいです。父よ、母よ、なぜそんなビッグな歴史的文学作品から引っ張ってきたんだ。でも何の因果か、最近おそまつな短歌とか面白がって作ってるからやっぱり名前って怖い、と思っています。

 

「名前」とか「名づけ」も小学生の頃から興味のあることだから、追々書きたいね。

それでは以下提出作文。

*************

 

「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。」

 これは日本人なら一度は聞いたことがある「古今和歌集仮名序」の冒頭の一節である。「和歌とは人の心から芽生えた、いろいろな言葉が繁ったようなものである。」という意味だ。これは和歌に対する紀貫之の見解を述べたものであるが、私は本にも同じことが言えると考えている。言うまでもなく本は膨大な言葉の連なりだ。そこから本とは莫大な心や感覚、思考のエネルギーから生まれ、それを糧に育った草木のようなものだと解釈してみたい。

 

 本の言葉は作家の心から生み出され、本を通して読者の心に運ばれて解されていく。ひどく共感するものもあれば、そうでもないものもあるだろう。また、ある時期熱を上げて読みふけった作家やジャンルも時の経過や人生経験とともに変わっていくこともある。まるで個々人の語り部だ。

 

 そう考えると、本棚とはそれ自体が思考、生き様の系譜や道筋になっており、まさに己の肉体から離れた自己のようなものであると考えることが出来るのではないだろうか。本棚に収められている本一冊一冊は、作家の執筆時の心や感覚を孕んでいる。それに触れた経験が、人が再度その本を手に取ったとき、読んだ当時の自分の心や考えをありありと思いださせるのだ。「二回目に読んだら全く印象が違った。」という感想をよく耳にするのは、その人が何らかの形の変化を迎えた後だからだろう。そういう意味では本は「タイムマシン」の側面も持っているのかもしれない。

 

  最初に本は心が育った木のようなものだ、と書いたが、私は本棚にはその心と思考の木々が無数に絡まりあったもの、あるいは肉体から離れた自己のようなものだというのならば、本は体を精緻に走っている血管のようなものであることを望む。本棚に並んだ本がその人となりを表し、自身も他人もしっかりと一個人を感じられるもの。それが私の理想の本棚である。