逆立ちしても「上」は「上」
勿論、体育の授業のことではなくて。
今日袋めんを開けていて気が付いた。
「めちゃくちゃ工夫してあるなー。こら便利。」
どんなことに感服したのかというと、切り口(開け口)がある側(向かって左)に成分表示を記載。実際作るときにそこから縦方向に袋を開けても、作り方の手順が書いてある側(向かって右)は無傷のまま保てる、というただそれだけのこと。
ちなみに袋は正方形の、よくあるインスタントラーメンが入っているような、正方形のやつね。
でもすごくない?だって右利きの人が多い日本で、買い物をするときは右手で商品つかんで、成分だのなんだのを見る。で、気に入ったらお買い上げ。
調理をするときには成分よりも作り方の方が大事だから、開け口は成分表示側に。
不便が、どこにもない。
ちょっと前までは「過剰に便利・安全性重視・何でもオートマチックな世の中は人の能力を下げる!」と母と言い合っていたのだが、最近は少し考え方が変わってきた。
自分も電車のダイヤを見るよりも、ネットで時刻表検索をすることの方が圧倒的に多いせいかもしれない。ちょうど便利グッズ・アイデア商品と呼ばれるものが、世でもてはやされるようになってくるのと同時に成長してきたかもしれない。
確かに、安全でどの部分でも切りやすいはさみは、力の加え方と位置関係を工夫することで、使い勝手が大きく変わることを気づかせるチャンスを奪うかもしれない。
シャープペンシルの芯を回転させて、いつも最適な位置に自動で持ってきてくれる例のペンは、少しずつ持ち方を変える手間を知らないまま、大人になる子供たちを量産するのかもしれない。(これに関しては、従来型の、ペン先と紙の当たり位置を変える手間を知っている層に爆発的にウケた、という方が正しい気がするが……。大体の子は鉛筆→シャープペンシルという道筋をたどるし。)
でも。だからと言って昔のような世界に戻すことは不可能だし、その「便利」もいろいろな人たちがアタマに汗をかき、時には血を噴出させながら生み出したものだと思っている。
それならば。「便利の逆算」という考え方や視点を持てばいいんじゃないのかな、という考えに至ったのだ。
これは完全な私の造語であって、前のバイト先や教職の授業で教わった言葉ではない。
便利の逆算ができると、世の中楽しい。
便利の逆算ができると、自分でカスタマイズした「オリジナル便利」を作れる。
便利の逆算ができると、不便に気が付ける。
そして、不便の中に合った工夫や、様々な「良さ」とも呼べるモノに思いを馳せられる。
そこから何を思うのかは自由だし、誰かが縛るもんじゃあない。
さて、このわかりそうでイマイチはっきりしない「便利の逆算」という言葉を高く高く放り投げたところで、前半戦終了。
髪の毛切ってくるね。長めのハーフタイムをとって後半戦は夜に。