ハレの日、まつり まえ・いま・うしろ
最近更新してないな、と思ったら、記事がストックしてあったので、それを投稿します。
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「遠足は準備が一番楽しい」という言葉は本当だと思う。
今日は中学時代のコーチの結婚式の2次会に出席してきた。
中学校卒業以来会うことはなかったので、お互いどう変わっているか、それともそのまま大人になったのか確かめてみたい、級友にも会える、と少しお財布の中が寂しくなってしまうこと以外は、素敵なこと、として今日を受け止めていた。
当日。
友人たちと合流し、贈り物の写真たてを買う。4つの窓がある物。
中学時代の写真と、その場で撮った大人になり着飾った私たちの写真、そしてその日会場で撮った写真が入れられるデザインの物。
決めるまで、あれやこれやおばさんみたいに文句を言いながら選んだ。
何しろ普段は皆それぞれの生活があるため、前持った準備はできない。手紙だけ書いてきて、あとはその場で急ごしらえ。「スマホでプリント」みたいな機械がうまく使えず、やっぱり「こうやっておばさんになっていくんだね。」とまだ本物のおばさんになっていない私たちは笑った。
準備の段階ではすべてが理想と想像通り展開されていく。
しかし現実は一つも思い通りになんて行かない。
慣れないヒールで足を痛めること、ゴリゴリの体育会系上がりの人たちがわんさといて、そのテンションについて行けないこと、知らない人と当たり障りにない会話をしないといけないことは、人生の場数を踏んでいない私にとって、全くの想定外だった。
楽しみにしていた、唯一の新郎新婦との共通項に関してもあまりしっかりと話せずお開きになった。(コンパニオンのように上手くいなして、相手を立てつつも、肝心なところは笑って流す友人のコミュニケーション能力には脱帽した。)
(うるさい)
お祝いするどころか、その空間で生き延びること精一杯になってしまったのである。
きっと私はお祝いする気持ちこそあったものの、「お祝いする自分」を楽しみたくて、無意識に「理想のお祝い」を作り上げてしまっていたんだろう。
自分の身勝手さと器の小ささに情けなくなる。
きっと、「理想」ではなく「予想」のお祝い程度に空想を留めることが出来るようになって、その人に合ったノリに合わせつつ、私もその場を心から楽しみ、ともにすることが出来るようになったら、私は何か一つ変わるのかもしれない。
奇しくもこの月、たくさんの友人・知人が結婚した。
暗い文章になってしまったが、皆もれなく幸せになってほしい。
どかん!と爆発するようなものでなく、すーっと凪いだ海のような、ゆったりと満ち引きを繰り返す幸せを、ずっと紡いでいてほしい。
できれば自分たちが今幸せだなんて実感しないくらいのささやかさで、でも目を凝らせば確実に、幸福の形をとった何かをそこ見つけられる暮らしを営んでくれることを切に願うよ。
結婚おめでとうございます。
新しい門出に幸あれかしとねがいます。
どうかどうか、末永くお幸せに。