変わり玉記録帳

日記・文章を載せる場所。個人文章道場も兼ねる。脳みそ断片保管庫宇宙本部。

教える・教わるの交差をいまだからこそ 

バイトから帰ってきて、夕飯を食べ終わり、母が切ってくれたスイカをしゃくしゃくと食べていた。いい歳をした娘の食事の世話をありがとう。

(本当は「ご飯だよ。」といって一番先に出てきたのがスイカだったので、私は帰りの電車の中でカブトムシか何かになってしまったのかと少し心配になった。まだ私たちは「ザムザ」の悲しみを味わわなくていいらしい。よかった。)

 

しゃくしゃく、ぶっ、しゃくしゃく。

つけっぱなしのTVは野球の試合の結果とハイライトを流しているようだった。

ぼんやり。しゃくしゃく。

 

「……広島、A選手が……」

 

このナレーションがふっと、私にあることを思い出させた。

 

いつまでも過去に、特に成功したことに拘泥していてはいけない、という意味合いの言葉を見つけた、といってブログにその素敵な文章をきちんと出典まで明記して示してくれていた友達がいた。

私もその言葉には同意だ。

 

でも、最近、Twitterの内容もここでの内容も、どれも本音で、心からやってみたかった・言ってみたかったことなのだけれど、なにかあっぷあっぷして、やかましい感じがするので、少し思い出話をして心を落ち着けたい。

 

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皆さんもう「ハイハイ」という感じだと思うが、私は学生時代ずっと塾講師をしていた。

 

最初は「先生」をやろうと必死になりすぎて、生徒置いてけぼり、失敗の連続だった。キャラのクセも強いし、経験を積んでも気を抜くと、つい畳みかけるように話してしまう。クラスのルールを徹底できず、甘えを許してしまうこともあった。

とにもかくにも、後悔する日々の連続だった。決してみんなにとってのいい先生じゃなかった。最後までできないことはたくさんあった。

 

しかし、なぜかバンバン大会や出張授業にも駆り出されていたので、たくさんの生徒たちと出会った。講習の4日間だけ担当した子もいれば、4年間ずっと見続けた子もいる。それは、財産。

 

その中の1人に野球の大好きなAくんという子がいた。

私はその子の学年の英語を担当していたが、スペリングがとても苦手だった。そこからつまずいてしまい、単語の意味は分かっても、正しい語順に並べ替えられなかった。単数形・複数形なんてややこしい物が出てくると、もうお手上げ。

 

私達のお仕事は、「点数を取れるようにすること・成績を上げること」である。

私はすぐさま、本人に、「1か月間だけ、授業後に一時間・野球のない日には宿題をやるために塾に来てみないか、30分で終わったらそれでおしまい、でいいから。」と相談をした。本人はしぶしぶOK。お母様もOK。

 

さて、特訓が始まる。

特訓と言っても、宿題と、その子のレベルに合ったプリントで丁寧に復習を重ねるだけ。

たった一文字のスペルミスでも丸が付かないのが中学校。

でも、私はたくさんたくさん「部分的に」ちいさな1重丸をつけた。なんで✕なのか、そして、ここをバッチリにすれば、もう少しでパーフェクトな◎になるんだよということを、ずっと話して聞かせる。

その子には、いろんな人からうんと褒められてほしくて、わざと講師が待機する場所の近くで勉強することにしていた。

 

最初は緊張していたが、だんだん打ち解けて、お互い本気のリアクションを見せながらやり取りできるようになる。当初の約束の1ヶ月はとうに過ぎていた。彼は授業が終わると、勝手に定位置に陣取るようになっていた。

 

なんでこんな風になったのか。それは私の力ではなく、周りの男性講師のおかげだった。最初に書いた通り、彼は野球が大好きだった。隙をついては野球の話をしようとする。私はちょろっと聞いては「はいはい」と窘めていたのを見ていた、同じく野球好きの講師が、彼の「語れるもの」を拾ってくれたのである。

 

野球の話をしているときの彼は本当に別人だった。

ぽんぽん出てくるチーム名・選手・戦術・最近の野球界の動向・投法……etc. 

語彙も語り口もしっかりしていた。素直に感心したし、安心した。

小さなプロフェッショナルは絶対に素敵な宝物を持った大人になる、と私は信じているから。そういう力を得たら、手段は様々でも、ガシガシと、自分の未来を切り拓いていける大人になれる気がする。私が言うのも変な話しですが。

 

「学年で一番野球に詳しいのは俺だよ。他の奴らは詳しくないから面白くないんだよ。」

 と豪語していたし、本当にそうなんだろうな、と思った。

だから、どうしても見に行きたい試合があるから授業を休みたい、といった時も、一応渋って見せたものの、重たーい条件を課して送り出した。

 

それから、私たちの特訓はちょっとスタイルが変わった。

プリントを1枚終えるごとに、私に少し野球のことを教えて、とお願いしてみたのである。不思議なことに、採点を厳しめにしたにも拘らず、正答率とスピードが上がった。

そして私にも宿題が出るようになった。

 

「先生投手しか知らないじゃん、来週までに投手以外の選手、10人!!ポジションまで覚えてきてね。」

 

彼の成績はゆっくりゆっくりとではあったが、変化していった。

しかし、一番大きく変わったのは勉強に対する姿勢だった。自分から、

「宿題を家に忘れたくないから、プリントここに置いて帰ってもいいですか?」(私のいた塾には配布物・返却物を渡すための個人用「ポスト」みたいなものがあった。)

と言うようになった。

今彼はどうしているだろうか。

先生はこの間坂本勇人選手のタオルを持って写真を撮ったよ。

 

子供だって、未熟なれどプロ意識を持っているものがある。それを私は大切にしたかった。

そして、そのプロ性と勉強をなんとかして結びつけられないかな、実は類似なものにできるんだよ、ということを伝えたかった。


たとえ、知らず知らずのうちに得た知識たちだったとしても、それだって立派な勉強の証、専門知識なのだ。

でも私が教えているのも勉強※。けれど、前者とはっきり違うのは、もともと好きではないもの、むしろ避けたいものだということだ。

※(私は世の中にあるモノはなんでも学びや探求の対象になると信じている)

 

「最初は出来なくても仕方ないよ。そのためにここに来たんだから、それを怒るなんてしないよ。サボったり、ずるをしたり、ずっと『出来なくていいや』とか言ってたら怒るけど。」 

「うーん、人と一緒って考えてみてください。会ってすぐ、いきなり “勉強さん” と親友になれることって滅多にない。

でも時間を掛ければ、少しずつ会話してみれば、よほどのことがなけりゃ『知り合い』とか、『友達』と呼べるくらいには、なってないかな。

その辺は、いい友達になれるように私も頑張ります。だから勉強のこともちょっとの間、頑張ってやってみない?もちろん、手伝うよ。」


というのが、私が勉強に苦手意識を持つ子によくかけていた言葉だった。


そういう子ほど、いきなり完璧を求められるんじゃないか、自分には絶対無理なんじゃないかと思っていることが多いのはなぜだろう。


ちなみに、私の壮大な目標は、「私の授業で勉強は、悪いもんじゃないな」と思ってもらうこと、そして、「私の教える科目を通して、自分の好きな科目・物事を見つけてもらうこと」だった。

伸び盛りの頭脳に眠る(知的)好奇心を、存分にこちょこちょしたかったのだ。

精神論めいたことばかり書いたが、もちろん学習塾なので、「トップを取れるまでの力をつける授業や、フォローをすること、その指導力を磨き続けること」は大前提である。


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私は最終学歴こそ、日本国内ではそれなりに評価をもらえるものになったが、本当は勉強が得意だったわけではない。むしろ成績下位層にいた。

ずっと普通の公立校に通っていたし、そこでトップ層にいたわけでもない。補習の常連だった。

だから、勉強が「苦手」や「嫌い」、「できない」という言葉でしか、勉強に対する気持ちを表現できない子の気持ちが少しは分かるつもりでいる、いや、分かりたい。

そして講師をしていた時は、それをなんとか分かろうとすることが、役目の一つだと思っていた。 

「じゃあ、もし "できた" としても、勉強は『嫌い』?」

とよく訊いていた。沈黙。私の気持ちを汲んでくれていたり、面倒だ、早く解放されたい、と思っていたりしたのかもしれないが、遅れて返ってくる、

「それなら悪くないかも。」

私もゆっくり返す。

「それなら大丈夫。単純な『嫌い』じゃなくできるかもしれない。」


さて私自身のことを、もう少し詳しく話そう。

私は中学時代、あまりにも数学と英語の点数が酷い上に、まったく勉強をせず遊びほうけていたため、ある日突然、何の相談もなしに、いきなり塾に連れていかれた経験の持ち主である。

しかもその日は短パンに、 "STOROBO" というロゴとバナナをむさぼるゴリラの絵が描かれたTシャツを着ていた。なんとも馬鹿っぽい恰好に加え、当時私は坊主頭だった。

これだけで、その頃の私のどうしようもないアホさ加減が伝わるだろう。

しかし、根は素直なので、学校や塾の授業は真面目に聞いていた。3年間で2回しか居眠りはしなかった。無遅刻無欠席。勉強に意外ときちんと向き合っていたこと、それなりに授業を楽しんでいたことにまったく気づいていなかったのだ。

中学生のマストアイテム、少しかったるそうにした「勉強めんどくさーい」を、私ももれなく身に着けていたのである。

そしてそれが本音だと錯覚していた。

 

でも、私は半年後にはそれを完璧に捨て去っていた。むしろ「授業も勉強もちゃんとやったら楽しいよ。」、「私、数学は苦手だけど、授業はみんな好きだよ。」とへらへら公言していた。


なんでそうなったのか。

勉強と、休み時間の鬼ごっこを同じレベルの「楽しみ」に据えて学校に通うようになった。

さすがにこれは大っぴらには言えなかったが、テストが楽しみな行事のうちの一つに変わった。

皆見ていないと思っていたが、成人式で再会した同級生に

「休み時間馬鹿なことばっかりしてるのに、授業が始まると人が変わったみたいだったから、ビビったし、正直どっかおかしいんじゃないかと思った。」

とも言われた。さすがにそれは話を大きくし過ぎている。やめてくれ。


しかし、確実に学ぶことに対する何かが変わった。そしてそこには私の人生を、

ぐるん!!!と方向転換させた人との出会いがあった。

「語れるものを持つんだ、自由に生きて、私もいつか絶対プロになるんだ」と思わせてくれた人との出会いがあった。

今でも、超大好きである。思春期の思い出ゆえ、美化されていることは否めないが、理想の人間のタイプの原型は紛れもなくこの人だ。

 

少し体の弱い人だったが、お元気にしているかな、今度、会いに行こうかな。