変わり玉記録帳

日記・文章を載せる場所。個人文章道場も兼ねる。脳みそ断片保管庫宇宙本部。

I'm cried by my vocation.

今までで一番まとまりがなく、言いたいことが分からない記事。

 

 

私は、人には泣かなくちゃいけないタイミングというものが、死ぬまでにいくつもいくつも仕掛けられていると思っている。

子供も、大人になっても。人によって数や場合・理由に差こそあれど、それは必ずやってくる。無視できない。解放なのか、懺悔なのか、はたまた歓喜か。それも人それぞれ。

 

また、個々人に必ず一つ以上涙を誘発するモノがある、とも信じている。多くは後天的に獲得されるものだと思うが、もしかしたら先天的に神様に授けられてしまったモノもあるのかも知れない。

なんだか泣きたくなってお気に入りの映画や本を手に取ったことはないだろうか。めぐり合わせと、自分の意志の絡み合い。

 

とにかく、最近私は泣くことをマイナスへ向かう行為だと感じなくなった。泣きたければ、それが許される環境で、もうわんわん泣けばいいと思っている。

 

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好きな英単語に “vocation” というものがある。多くの単語帳には「天職」」や「生業」という意味で載っているが、辞書※1なんかには「神様からの思し召し」、「(特定の生き方に向いている)強い適性意識」という意味が先頭に来る。ラテン語がもとで、「神様からのお呼び」が転じて今の意味になったそうだ。 “vocal” と最初の3文字が同じことからもわかってもらえるだろうか。辞書の隅っこに “L = summon” も参考として書かれているのも面白い。

 

さて、状況上「適性」ということを常日頃考えさせられているが、どうやら私は己の適性に触れると、泣いてしまうらしい。

「自己分析」に手を焼いた人も多くいたと思う。私も最初はマニュアル通りやろうとして躓いていたが、いったんリセットして考えてみると、勝手に涙が出てくるようになったので分かりやすかった。他人から言われるもの、適性検査の結果、全て一致していた。

私の “vocation” それは、「誰かに手を差し伸べること」である。

 

こう書くと大げさだが、要は、「他人を放っておけない」、お節介野郎なのである。放っておかないというのは、優しくない。もちろん心配から声を掛け、いい結果に終わることもあるが、意見もする。相手によっては説教もするし、議論にもなる。相手を追い回すことにもなるのだ。それは己も相手も疲弊させる。

プレゼントにやたらと力を入れたがるのも、気になったものを調べまくってしまうのも、この性格に起因するのかもしれない。

 

そして、これは裏返すと、とても「目立つ」行為である。だってわざわざ人を追いかけて行って、もしくは行きずりの人に声を掛けて、何かをするのだから。でも私はそれを厭わなくなってしまった。

最近こそ「場を読んで一歩踏みとどまる」ことが出来るようになってきたが、それでも何か「お節介」できそうなときには、体の奥から湧き上がるものを感じる。人目に晒される恥はもうそこにない。終点で寝過ごして、折り返してしまいそうな人の足は必ず蹴飛ばす。

 

私の涙を呼ぶものは皮肉なことに、自身の “vocation” だ。共感なのか何なのか分からないけれど、悩んでいる後輩がいる、とのことでぼろぼろ泣いてしまった。もちろん連絡を入れながら。顔もあやふやな後輩の困惑と祈りが、するする自分の中に入ってくる感覚を今日も味わった。

ある日は、「キツイお局に当たられている」という先輩の話を聞きながら唇を噛んでいた。ちなみに優しくされても泣く。これは「私も!」という人が多いんじゃないかな。

 

(閑話休題。暗い話なのでちょっといい話をブチ込むと、Sさんと付き合い始めた頃、どれだけ重くて大きい荷物を持っていても、男性に物を持たせるのは好きではないので、「持つよ」の言葉に応じませんでした。そのうち、私の行動・思考パターンを把握してくれて、持ち物については、好きにさせてくれるようになったことに気づいて、これも「優しさ」だ、と思ったときも号泣しました。私はマジでよく泣く。)

 

こんなことを書くと「もともと目指していたものになればいいじゃない、絶対向いてるよ。バイトもそんなんだったじゃん!」という人が結構な数いる。いろいろな人から「適職」のお墨付きも頂いている。

 

でも、今の私には、個人の努力や行動ではどうにもならない、どうしても「それ」にはなれない事情があるのだ。

いつかはなれるかもしれない。でもそれがいつかは分からない。なれる用意が整ったときには、もう遅い可能性だって十分ある。何より、私は所謂仕事人間なので、「一般のお仕事」も好きだし、頑張れるなにかを見つけると思う。

そういう状況だから、「神様からの思し召し」に背くことになった。 “vocation” に泣かされるようになったのは天罰なのかもしれないね。

 

だから、本当の私の “vocation” に近いものごとに触れるたび、わんわん泣く。これは「思し召し」に背かざるを得なくなった私に用意された、泣くタイミングのひとつひとつなのだろうか。そうすると、その涙は単なる罰ではないのかもしれない。

 

そして、泣きながら差し出される手は、果たして本当に受け入れられるものなのか。

答えは否、だろう。怪しまれるか、却って心配されてしまうに違いない

 

運命は何かの拍子で変わる。本当に予期せぬ方向へ動いていく。もちろんかつての自分がそうしたように、自分で力づくで、ぐいっと方向転換させることだってできると思う。

 

そう考えるからこそ、私が涙せず呼ぶ声の方へ歩いていけるようになるまで、たとえそれが幼い頃から志したものとは違っても、正しく「誰かに手を差し伸べること」ができる日が来るまで、私はじっと手を合わせる。

 

※1ジーニアス英和大辞典(大修館書店)より