変わり玉記録帳

日記・文章を載せる場所。個人文章道場も兼ねる。脳みそ断片保管庫宇宙本部。

ものを書く、をお仕事にする人たち その2

私は貧乏なので平気で100均でシュシュとか買うし、300円のピアスをして街へ出掛けます。でもやっぱり、本当に心惹かれるものって、必ずそれなりのお値段なので、いつもお菓子売り場で不自由な顔の子どもの心です。

安くてかわいい物も大好きなんだけどね。この間はタツノオトシゴとピンクの象のピアスを手に入れたよ。つがいで300円。コンビニおでんで喜ぶカップル。

 

やはり気まぐれなので、書きたいことを前後編に分けると、後編を書くのが急におっくうになるのです。

 

前回の振り返り

・人の職は見た目ではわからない

・ライターは好きなことを好きなよ   うに書く職ではない(≠コラムニスト・エッセイスト)

→①内容によって文体・言葉遣いを変える必要がある・それを求められる場合が多い

 ②自分の文章のクセを消しつつ、発想力を活かしクライアントの意に沿うような文章を生み出す仕事人である

⇒「顔の出ない演者」の側面もはらんでいると考えている(記事に個人名が出ないことも多い)

・しかし一部のライターは自分も企画立案に参画し、自分の個性を存分に発揮しながら活躍している

・「書くのが好きだから」で手を出すとがっかりする可能性もあるから、しっかり調べて探して自分に合ったライター道を見つけよう

 

でした。今回は作家の話。

 

今日も念のため「個人的見解ですが」と頭に付けた上で話すと、作家がライターと一番異なることは、その人個人のクセや世界観が、「作風」として評価されている点なのではないかな、と思っています。つまりライターのような演じ分けをしなくてもいい。

 

もちろん作家も、人によりけりだとは思いますが、100%その人自身を出しているわけではないとは思うので、「作家、○○✕太郎」を演じ、創り上げている人はいると思います。でも、ライターほどたくさんの役はやらなくてよくて、むしろどれだけ一つの役を磨き上げられるか、というところに演じ方の違いが出てくるのではないかと思います。邁進する職人のよう。


幻想的な作風の方のエッセイは、日常を描いているのに、やはりどこか現実を感じない部分があります。そうかと思えば、「もうこういうもんなんだろう」と解釈を投げたくなるくらい、非現実な小説を書く人のエッセイが、人間味むき出しだったりするのです。作家とて私たちと同じ生身の人間としてどこかで生きているんだと感じるときでもあります。

 

そして上に自分のクセを売りにしているライターもいる、と書きましたが、その人たちは少し作家的な要素を持っているのではないでしょうか。また、記事の最後にライター名ではなく会社名や「○○編集部」と記載しているサイトや雑誌がある、と「その①」で書きましたが、それは、その会社自体のクセや「作風」を売りにしている、団体丸ごとを「作家」だと見ることはできないものか、とも思いました。

 

己の書きたいことを、自分の裁量と世界の中で書いているのが作家で、会社(クライアント)が書きたいことを汲んで文章力を発揮しているのがライター。

本当はもっと複雑な絡み合いがあるのだろうけど、素人が思ったところはそういうことでした。

(編集者の友人が「お前全然分かってない、知った気になんじゃねえ!」と訂正の怒鳴り込みに来るのを待っているよ、ここでなくていいから。)

 

ベストセラーや賞にノミネートされる作家は、独特のクセや世界観にくるんで「ああ~、この気持ちわかる気がする……。」や「なんかすごく深いところが揺さぶられる感じがする、考えたい。浸りたい」という、人間の心がどこかで欲し続けている何かを、巧みな文章で的確に読者の心に届けられる人なのだと思います。そしてその世界観を残しつつ、共感を得られる、心や身体を圧倒できる才能に、多くの人は憧れるのでしょう。もちろん私もその一人です。

 

なんか結果的にライター論になってしまったな。

小説のあとがきを読むと、たまに「いつかはこのテーマに取り組まねばならないと思っていた。」というような文を見ます。おそらく作家の方も、「自分」というものが色濃く出ている発信者としての使命を、己や社会に対して感じているのではないか、と、ふと思いだしました。

 

 

この間、最寄り駅から電車に乗ったら、ある大手出版社に小説か漫画(抱えていた封筒のぶ厚さ的に)を持ち込みに行く女性を見かけました。化粧っ気もなくて、髪もぼさぼさで、まさにその茶封筒の中にあるモノの為に身をやつしたのだ、とすぐにわかりました。緊張と気迫が宿った目に、凛々とした心に、幸あれ。